ソニーの歴代の社長(経営トップ)一覧

最後の創業世代社長

名前 説明・実績

井深大

(いぶか・まさる)

井深大

【個人事業主、創業者】

【期間(個人事業主の時代)】
1945年10月~
1946年4月

実際は「単独創業者」

ソニー創業者。個人事業主としてソニーの前進となる「東京通信研究所」を単身で立ち上げた。 終戦から2か間後のことだった。

ソニーは盛田昭夫氏と井深氏が2人で創業したことになっているが、 実際のところは、井深氏が1人で創業した。

後で法人化する際に、金持ちの息子だった盛田氏をパートナーとして迎え入れたのだ。

天才発明家

1908年生まれ。早稲田大学の在学中から数々の特許を取得するなど、天才発明家として活躍した。

ドクター中松や豊沢豊雄とはレベルの違う世界レベルの発明家だった。

特許料でぼろ儲け

井深氏の発明で最も有名なのは、ネオン管に高周波の電流を通すことで光が動く特性を応用した「流動ネオン」だ。 後に商品化され、パリ万博(1937年)で最高の発明品に贈られる金賞に輝いた。

この特許料で豊富な資金が手元に入ってきた。

仲間と独立

大学卒業後は、PCL(後の東宝映画)に就職。

PCLの社長が設立した会社(日本光音工業)に移籍した後、その社内の無線部を独立させる形で「日本測定器」という新会社を仲間と共に設立。役員の一人(常務)として、技術面だけでなく経営に携わるようになった。取引は軍需が中心だった。

軍のミサイル開発で盛田と出会う

1943年、戦争で苦戦していた日本政府は、起死回生を図るために秘密兵器の開発を急ぐ。

敵艦の熱を感知して命中させる誘導ミサイル(熱線爆弾)が計画された。

官民の研究者が総動員され、研究会が発足する。このとき民間から参加した一人が井深であり、軍部から加わった海軍中尉が盛田昭夫(後のソニー社長)だった。

盛田は井深の13歳年下。2人は意気投合した。

焼け跡の東京・日本橋で創業

この間、井深の会社(日本測定器)は空襲を逃れるため、東京から長野県へ移転した。

井深大はそこで終戦を迎えると、盟友・樋口晃(後のソニー副社長)ら他の技術者7人とともに上京する。

屋号「東京通信研究所」

焼け跡に残る日本橋の東急百貨店(当時:白木屋)の3階の狭い配電盤室を間借りし、「東京通信研究所」の看板を掲げた。これが事実上のソニー創業である。

ラジオの修理

最初に手掛けた仕事は、ラジオの修理だった。

戦時中に壊れたラジオを直すだけでなく、本来は聴けないチャンネルを受信するための改造も手掛けた。

情報に飢えた大勢の人たちがラジオを次々と持ち込んだ。

法人化へ

優れた技術力に注目した進駐軍やNHK、官庁などからの仕事も舞い込んだ。

事業の前途に目算のついたのを機に、井深は個人事業を株式会社に改組することを決意。

有名な設立趣意書を起草し、「理想工場の実現」を説いた。

盛田を仲間に

井深らの活躍が朝日新聞のコラムで取り上げられると、 戦中に兵器研究チームの仲間だった盛田昭夫が動いた。

盛田は実家の「盛田酒造」(愛知県)の後継者として期待されていたが、 井深は義父の前田多聞(元文相)とともに盛田の父親を説得し、仲間に引き入れることに成功した。

盛田の父は資金援助まで約束してくれた。

井深38歳、盛田25歳

かくして敗戦から9か月後の1946年5月、井深と盛田家の共同出資により、「株式会社東京通信工業」が設立された。

資本金19万5000円、従業員20人だった。井深は38歳、盛田は若干25歳だった。

【動画】

<▼設立時の肉声>

前田多門

(まえだ・たもん)

前田多門

【期間(個人事業主の時代)】
1946年5月~
1950年11月

井深の義父

井深大が立ち上げた事業が、個人経営から法人(株式会社)に切り替わると同時に、初代社長に就任した。

井深の義父という縁だった。以来4年半、社長を務めた。

戦時下の官僚

もともとは戦前・戦中を通じてエリート官僚だった。敗戦直後に文部大臣に就任したが、GHQにより公職追放となっていた。

就任当時62歳

若い井深と盛田がソニー(当時:東京通信工業)を設立するにあたり、 対外的な信用を得やすい人物ということで、社長として担がれた。

就任当時62歳。会社としてのソニーは、前田社長、井深専務、盛田常務という体制でスタートしたのである。

官庁などに売り込む

やや名誉職のような立場だったとはいえ、幅広い人脈を活かし、有力財界人を婿・井深に紹介するなどサポートを行った。 初期の製品を官庁などに売り込む役目も担った。

井深大

(いぶか・まさる)

井深大

【期間(個人事業主の時代)】
1950年11月~
1971年6月

満を持して社長に

会社設立から4年経ち、経営が軌道に乗ってきたことから、 創業者・井深大がいよいよ社長に就いた。

開発を陣頭指揮

社長になってからも技術部隊のリーダーとして自ら開発を陣頭指揮した。

1950年に国産初のテープレコーダーを発売する。 音声を記録する磁気材料やテープから始まって、すべて自前の技術で開発するという偉業をやってのけた。

次いで、発明されたばかりのトランジスタの実用化に挑み、トランジスタ・ラジオの初の完全国産化(1955年)に成功した。

次々と新開発

その後もトリニトロン・カラーテレビ、ビデオへと挑戦を続け、次々と市場で勝利を収めた。「人まねでない独創的な商品開発」という精神を貫き、世界一流のテクノロジー企業へと躍進を遂げた。

出身:栃木県

誕生:1908年

死去:1997年(享年89歳)

盛田昭夫


盛田昭夫

【期間】
1971年6月~
1976年1月

第3代社長。

抜群の商売センス

ソニー設立以来、抜群の商売センスを発揮し、 「技術の井深、営業・マーケティングの盛田」と呼ばれる名コンビで、 小さな町工場の会社を世界屈指の一流企業へと発展させた。

国際感覚も抜群で、欧米で最も知られた経済人となった。

「東通工」を「SONY」に

1953年の初の海外出張で、農業国オランダの電機メーカー、フィリップス社を視察する。

「小さな自国市場より広大な世界市場が舞台」とするフィリップスの方針に感銘を受けた盛田は、帰国するや世界市場進出への手がかりとして、1955年、「東通工」の製品を「SONY」ブランドに変更した。社名もソニーに変えた。

商社に頼らず自分で売る

この後、商社に頼らず海外の市場に直接販売するための体制を整備したことは、 功績の一つとして高く評価されている。

盛田ならではの優れた交渉術や国際コミュニケーション能力が武器になった。

NY上場

1970年には日本企業として初のニューヨーク上場を達成するなど、 グローバル化の先頭を走った。

ウォークマンを生む

世界中の若者を魅了したウォークマン(1979年発売)は、盛田らしい画期的なアイデア商品だった。

録音ができず、再生だけのテープレコーダーは売れないと反対する部下の技術陣に対して、 「売れなかったら責任をとり会長を辞める」と断言。発売を強行し、歴史的な大成功へと導いた。

脱製造業

製造業だけに依存する体質から脱皮し、多様な分野への進出を果たした功績も大きい。 戦後、多くの製造業が「脱メーカー」を試みたが、成功した会社は少ない。 盛田自時代のソニーの異業種参入の成功度は日本のメーカーとしては別格であり、経営手腕に依るところが大きい。

ソニー生命で大成功

まず、「金融」の重要性をいち早く見抜き、銀行業へ参入を準備した。 大蔵省の規制の壁で実現しなかったが、 1979年にソニー生命を設立。保険業界に新風を吹き込んだ。

音楽と映画で世界メジャーに

米CBSとの合弁で日本にレコード会社を設立する。 盛田氏の行動力と決断の速さが、CBS経営陣との交渉成立の要因となった。 大賀典雄氏を中心とする若い人材に運営を任せ、 斬新な商法でたちまち国内音楽ソフト市場トップに立った。

ソフトでも世界へ飛躍

すると、今度は米国の本家CBSレコードを買収し、世界的なレコード会社「ソニー・ミュージック」になった。 その成功体験をもとに、米ハリウッド映画会社コロンビアを買収するという大型海外M&Aを実現させた。

21世紀の収益源

映画や金融といった非製造業ビジネスは、21世紀のソニーグループの収益の柱となった。 日本の産業界にとっても歴史的な偉業だったといえる。 (日本の偉大な経営者ランキング→

経団連会長を目前に

経団連会長を目前に病いに倒れた。1999年死去。享年78歳。

愛知県の名門造り酒屋の御曹司。大阪帝大理学部卒。

【動画】

<▼1988年、米国インタビュー>

岩間和夫


岩間和夫

【期間】
1976年1月~
1982年9月

第4代社長。創業期からエンジニアとして井深氏を支え、技術陣のリーダーとなった。

とりわけトランジスタやCCDを生み出した功績は大きい。1954年に渡米した際にまとめた「岩間レポート」は半導体研究の礎となった。1970年代にコンピュータ時代の到来を予見し、プロジェクトを立ち上げた。

盛田昭夫氏の義弟でもあった。東京帝大理学部卒。1976年社長就任。社長在職のまま1982年に急逝。

大賀典雄


大賀典雄

【期間】
1982年~
1995年

第5代社長。創業期を知る最後のソニー経営者だった。技術開発・製造からブランド戦略、そしてコンテンツビジネスに至るまで幅広い分野で卓越したセンスを発揮した天才事業家。一流のプロ音楽家(バリトン歌手)でもあった。

学生時代から会社に出入り

東京芸大の学生時代、設立間もないソニーの研究室に出入りし、井深や盛田と議論を交わしていた。

プロの音楽家に

大学がソニー製の録音機を購入するにあたって、学生の分際で細かい注文を付けていた。 電気や機械についての才覚を井深・盛田コンビに見込まれ、 卒業後はプロの音楽家(バリトン歌手)としての道を進む傍ら、ソニーの嘱託として雇われ、経営陣から重宝された。

34歳で取締役に

1959年、29歳で正式に社員として入社すると、いきなり第二製造部長に就任する。 2年後にはデザイン室と宣伝部のトップも兼務。 さらに、34歳で取締役に抜擢される。 まさに創業者並みの扱いだった。

国内最大手のレコード会社をつくる

ソニーが1968年に米CBSとの合弁でレコード会社「ソニー・ミュージック(当時CBSソニー)」を設立すると、盛田氏から経営トップを任される。 ソニー本体の要職と兼務しながらも、豊かな発想力でレコード業界の掟を破る政策を次々と実行。 「アイドル路線」で邦楽を売りまくり、わずか11年で業界国内1位へと成長させた。

好デザインの立役者

入社してから一貫して商品デザインの責任者を務め、洗練されたブランドイメージづくりの立役者にもなった。

社長就任

CDで大成功

1982年、52歳でソニー本体の社長に就任。アナログ・レコードの代替となる「CD(コンパクト・ディスク)」を拡大・発展させた。

MDやプレステも

ビデオテープ再生・録音機をめぐる規格争いでは、「ベータ」で多数派を形成できず、 「VHS」を擁するパナソニック陣営に敗れた。 それでも、MD(ミニディスク)を世に送り出して大成功させるなど、 消費者への訴求力で業界をリードした。 後に稼ぎ頭となるゲーム機「プレステ」の立ち上げにも大きな役割を果たした。

ハリウッド買収

ハリウッドの映画会社買収でも、盛田氏の決断と実行を支えた。

2011年4月死去。享年81歳。

【動画】

<▼1988年、音楽についてのインタビュー>

出井伸之

(いでい・のぶゆき)

出井伸之

【期間】
1995年4月~
2005年6月

第6代社長。ソニーで最初の「純サラリーマン社長」だった。しかも、ほぼ無名の役員からの大抜擢だった。

映画事業を軌道修正

着任早々、多額の赤字を垂れ流していた米国の映画事業(コロンビア/ソニー・ピクチャーズ)の立て直しに取り組み、現地の経営陣の交代に動いた。

ピクチャーズの後任社長として招いたジョン・キャリーらによる再建が成功。

新体制で 「スパイダーマン」などのヒットが生まれ、危機的状況だった映画ビジネスは大きな収益源になった。出井氏の持ち味である近代的な経営感覚や国際感覚がうまく生かされたケースだった。(詳細→

パナソニックと差を出す

同じくハリウッド映画スタジオを買収したパナソニックが、現地の経営陣をコントロールできず、早々に株式を売却したことを考えると、出井氏のコロンビア再建は評価されるべきだろう。

電機事業で停滞

しかし、電機事業では迷走した。当初は、インターネットの時代の到来に乗っかろうと、「デジタル・ドリーム・キッズ」などカタカナ語の標語を乱発し、メディアから「先進的な経営者」ともてはやされた。 ところが、技術的な潮流の本質を理解できず、革新的な商品やサービスを自ら生み出すことができなかった。

「ウォークマン」「プレステ」を生かせず

過去の経営者が生み出した「ウォークマン」「プレステ」などの優れた商品群を、ネット時代に適合させることに失敗。米アップルなどに産業の主役の座を奪われた。

半導体投資で大失敗

半導体の投資でも大失敗した。2005年に東芝と組み、米IBMの技術をベースにした高性能マイクロプロセッサの開発に乗り出した。「セル(Cell)」と名付けられたこの半導体チップを「プレイステーション3」に搭載した。このチップをあらゆる電気製品に組み込んで情報革命を起こそうと目論んだが、消費電力が大きく、対応するソフトウエアが書きにくい問題があり、無駄になった。

銀行業進出は成功

銀行業への参入を実現させたのは大きな成果だった。 マネックス証券の創業段階から出資し、間接的にネット証券に進出。 後に株式売却益で稼いだが、プレナス投資顧問によると、これは出井氏の個人プレーの成果だった。

業績悪化で退任

就任期間の後半は業績を悪化させ、日本の株価全体の足を引っ張る「ソニーショック」を引き起こした。最後は責任を問われ退任した。

学者肌

父親は早稲田大学の経済学者で、自らも学者肌だった。ソニー入社後は外国部に配属、フランス法人設立に参加した。1980年代にパソコン事業を手掛けるが失敗。担当事業部長としてビデオテープ再生・録画機「ベータ」からの撤退も指揮した。

【動画】

<▼2006年、最高顧問時代のインタビュー>

ハワード・ストリンガー


ハワード・ストリンガー

【期間】
2005年6月~
2012年4月

第9代社長。米国ソニーのビジネスを立て直した功績が評価され、ソニー初の外国人トップとなった。

英出身の米放送人

英国生まれ。ジャーナリスト出身という異色の経歴の持ち主。米CBSテレビでドキュメンタリー制作に携わるなど、約30年間メディア業界に従事した。

映画や音楽事業を近代化

ソニーとの縁は、1997年に米国現地法人のトップとなってから。東京本社の出井伸之CEOの意をくみながら、映画や音楽事業を近代的なビジネス体制へと転換させた。マイケル・リントンの起用など映画部門の幹部人事でも優れた手腕を発揮した。

米国の老舗映画スタジオMGMを買収するなど、コンテンツ時代を先取りした。

温厚な性格

温厚な性格で、「最高の外交官」とも評される交渉力と人柄が、ハリウッドや音楽業界相手の難しいビジネスを成功に導いた。

ハードは引き続き停滞

CEO就任後は、出井時代から衰退していた電機事業の立て直しに腐心した。

グループが一致団結すべきと「ソニー・ユナイテッド」を提唱したが、あまり実を結ばなかった。

日産自動車のカルロス・ゴーンのような大改革をするほどの腕力や遂行力は欠けていた。

「逆行」を食い止め、平井につないだ

それでも、時代遅れの「ものづくり万能主義」への逆行を食い止め、国際派の平井一夫へとバトンタッチした功績は大きい。世の中の流れを読み取る力は優れていた。

【動画】

<▼2009年、米国家電ショーでスピーチ>

平井一夫


平井一夫

【期間】
2012年~
2018年

コミュニケーション能力に長けたリーダー。 国籍や世代を超えて、あらゆる立場の社員や取引先と腹を割って意思疎通ができるのが強みだった。

大規模リストラを連発

就任後、自社ビルや保有株式などの売却を進めた。

パソコン事業を手放す

慢性的な赤字に陥っていた電機事業の再建に正面から取り組んだ。 不採算部門を次々と売却した。 パソコン事業「VAIO」を分社化して誕生した新会社には投資ファンドの日本産業パートナーズが95%を出資し、ソニーの出資分は5%にとどめた。 テレビも分社化した。 電機事業の従業員数は2007年度の約16万人から2016年度は約9万人にまで激減した。

スマホで大敗北

当初はスマホ事業の拡大を図った。しかし、先行するアップルやサムスン電子との差は縮むどころか、シャオミやファーウェイといった中国メーカーにまで安値攻勢で敗れた。結局、拡大路線を断念。米国や中国から撤退した。

人員削減と「追い出し部屋」

1万人以上の人員削減を断行。 人事や広報といった本社スタッフを3割削減。 「追い出し部屋」には、リストラ対象者が多数送り込まれた。 部署ごとにノルマが課せられ、上司の評価を気にする管理職ほど順守した。

創業以来初の無配

ソニー70年の歴史の中で初の無配を決断した。 後ろ向きのリストラが中心だったが、短期間でスリム化を実現した実行力は評価できる。 「ネアカ」で実直な性格もプラスに働いたようだ。

新事業の成果はなし

とはいえ、ソニー本来の特技だった革新的な新規事業の立ち上げという面では成果が出なかった。

素早い引退

子会社ソネットの社長だった同世代の吉田憲一郎氏を、2013年6月に実質的なナンバー2として迎え入れた。 それ以来、吉田氏のチームが出してくるリストラ案を次々と受け入れ、断行した。 就任から6年、57歳という若さで早々に退任した。

亜流の経歴

もともとは、レコード会社ソニー・ミュージックの社員だった。 「音楽が好きだった」という理由で、当時のCBSソニーに新卒で就職。 洋楽アーティストの来日時のサポートする業務を担当した。

NYで頭角

米国からの帰国子女だったため、 英語はペラペラ。 入社10年目にソニー・ミュージックの米国本社(ニューヨーク)に配属された。

米国でプレステ立ち上げ

ちょうどそのとき、ソニー本社が開発した新しいゲーム機「プレイ・ステーション(プレステ)」を米国でも発売することになり、部外者がら手伝いに駆り出された。 そこでの働きぶりが、ソニー・ミュージック役員でプレステ事業の「影のまとめ役」だった丸山茂雄氏に認められ、 35歳の若さで米国ゲーム事業のトップに抜擢された。

久夛良を支える

それ以来、日本にいるプレステ創始者・久夛良木(くたらぎ)健氏のビジョンを海外で支える人材として大活躍。 米国のゲームソフト会社などと良好な関係を築き、 最大のゲーム市場である北米で、 プレステ1号機と2号機を大成功させた。

ゲームを危機から救う

続くプレステ3号機が過剰なハイスペック半導体投資によって巨額赤字に転落すると、 米国を離れて日本のゲーム事業のトップを任され、 見事に立て直した。 その手腕を買われ、ハワード・ストリンガー社長から後継者に選ばれ、51歳という異例の若さでソニー全体の社長に就任した。

前任者の新ポスト

取締役会議長(2013年6月まで)

【動画】

<▼2019年、日経インタビュー>
<▼2016年、母校のインタビュー>
<▼2018年、米国インタビューでAIBO紹介>

吉田憲一郎


吉田憲一郎

【期間】
2018年~2023年3月

社長就任時の年齢

58歳(前任の平井氏より1歳年上)

社長就任前の役職

CFO兼副社長

前任者の処遇

代表権のない会長に

他の主な役員人事

吉田CFOとともに平井社長を支えた十時(ととき)裕樹執行役(当時53歳)が、新CFOに就任。

人事の背景

2018年3月期の好決算が確実になったタイミングで交代。「後ろ向きのリストラの時代」から「前向きな経営」への時代を印象づけようとしたようだ。

入社年次

1983年

出身校

東京大学

略歴

財務出身

ソニーで財務や証券畑を歩み、出井伸之氏の社長時代に社長室長を務めた。

子会社ソネットの社長

自ら志願し、2000年にインターネット接続サービス「So-net(ソネット)」を手掛ける子会社ソニー・コミュニケーションネットワークに出向。社長に就任。株式上場を成功させた。

ベンチャーで成功

携帯ゲーム会社「DeNA」などのベンチャー企業への投資を成功させた。

就任前の実績・評価・評判・口コミ

合理化の推進役になった。 パソコン「VAIO(バイオ)」事業の売却や、テレビ事業の分社化などを主導した。 「手堅い現実主義者」と評されることが多い。

出身地

熊本県

家族

妻と長男の3人家族

実績

熊本に半導体工場

主力製品である「CMOS(相補性金属酸化膜半導体)画像センサー」の新工場(熊本)建設という大型投資案件を決めた。

「クランチロール」買収

米国にあるアニメ専門の動画配信会社「クランチロール」を1300億円で買収した(2021年)。 ディズニーやワーナーなどのハリウッド映画スタジオは、Netflixに対抗して配信サービスを立ち上げたが、 吉田体制下のソニーはそのような無謀な道は選択しなかった。 アニメに特化した既存の配信事業を買い取るというニッチな路線を選び、やけどをせずに済んだのは良かった。

金融事業では迷走

2020年、上場していた金融子会社(ソニーフィナンシャル)について、上場を廃止して完全子会社にすることを決断。 4000億円を投じて、市場から35%の株式を買い取った。

ところが、その3年後の2023年6月、再び金融子会社を上場させるとの計画を発表した。 上場後は20%弱の株式保有比率にとどめるという。まるで一貫性がない。 結局「マネーゲーム」がやりたいのか? 「製造業」よりも「金融」のほうが有望なビジネスであるはず。むしろグループの中核事業の一つとしてガッチリ抱え込んでおくべきではないのか。

【動画】

<▼2018年、中期計画の発表>

十時裕樹

(ととき・ひろき)

十時裕樹

※2023年4月から社長だが、CEOではなく、COO(ナンバー2)である。

2023年4月1日付で社長兼COOに就任。

吉田社長は会長となった。 ただ、CEOは引き続き吉田氏が務めることとなった。 長年にわたり、吉田氏の「右腕」として活躍してきた。 ソニー銀行設立(2001年4月)の中心メンバーとしても有名。 「経営」と「金融」に精通している。

入社年次

1987年

出身校

早稲田大学(商学部)

入社理由

盛田昭夫氏に憧れていた。

略歴

1987年ソニー入社、財務部に配属される。

もともと財務は、早稲田大学時代から望んでいた仕事だった。 商学部時代、「海外直接投資」のゼミに所属していた十時は、ある時、元ソニー会長の故盛田昭夫が唱えるグローバル・ローカライゼーションという考え方に出合う。 生産拠点を現地に移し、現地に権限委譲していくという将来を見越した考え方に感動した。 ソニーで自分の専門である財務をやりたいと考えた。 希望通り財務に配属されたが、当時、日本経済はバブルの絶頂へと登り詰めようとする時期で、どこの企業も財テクに熱心だった。 十時も入社2年目に債券運用を、3年目には為替取引を任された。 しかし、自分の頭で考えて運用するわけではない。 金融機関が取りそろえた、似たり寄ったりの商品を選ぶだけにすぎなかった。

欧州で金融業務

27歳になった1991年から3年間、英国ロンドンに駐在しソニーの金融子会社を立ち上げる仕事に携わった。ロンドンで金融業の何たるかを知った。 その後ヨーロッパにおける為替ディーリングと資金調達を行う。

帰国し、金融進出担当に

1995年帰国し、再び財務部に戻る。不良債権処理にもたつく日本の金融機関の危機的な状況に接した。

1998年、「PFS(パーソナル・ファイナンス・サービス)事業推進室」に配属。 ソニー生命が大きくなるにつれ、リテール中心の新しい金融ビジネスを始めるのか、それとも生命保険だけにとどめるのか。 ソニーの金融ビジネスにおける事業展開を検討する時期に来ていた。 その検討作業の主担当を任された。 ところがプロジェクトが凍結される。 当時、不良債権問題などの金融スキャンダルが世間を騒がせ、上層部が金融参入に難色を示したのだ。 10人いたプロジェクトチームはいったん解散になった。 十時氏ら主要メンバーは、「今までお世話になりました。この先は銀行をつくります」と異動願を提出した。 熱意は認められ、活動は再開。ただしメンバーは2人だった。 それからは泊まり込みで準備に明け暮れた。 役員に銀行の必要性を繰り返し説き、十数回の差し戻しにもめげず、着実に銀行のスタイルをつくっていった。

1999年、金融サービス事業準備室に配属。

2001年ソニー銀行入社。 2001年6月ソニー銀行開業。

2002年にソニー銀行社長に就任。

就任前の実績

平井社長時代、吉田氏とのコンビでリストラを断行した。

就任前の評価・評判・口コミ

「新規事業に積極的で、外国人取締役から人気がある」

出身地

山口県

生誕

1964年生まれ

子供時代

山口市立宮野小学校、宮野中学校、山口県立山口高校

学生時代

高校ではラグビーに没頭し、中国地方で優勝

著書

著書に『ぼくたちは、銀行を作った』

家族

1989年に結婚

趣味(ソニー銀行時代)

犬を飼うこと

好きなミュージシャン

中学生のころからずっとサザン・オールスターズ

「起業家」ではない

ソニー銀行の設立の中心人物だったとはいえ、決して「創業者」や「起業家」ではない。ソニー本社のサラリーマンの一員として、出井伸之社長らの指揮のもと、ソニーの組織や資金をたっぷり使いながら子会社を立ち上げる業務を行ったに過ぎない。

吉田氏の仲間

吉田前社長と同じく財務畑の出身。ソネットでも吉田前社長の腹心だった。社長に就任する前はCFO兼副社長として吉田氏を支えた仲間であり、同志だ。それにしても、仲間うちだけでトップ2ポストを占拠するのはいかがなものか。他にもソニーには多彩な人材がいるのではないか。

【動画】

<▼社長就任の挨拶>


社長にはなったが、CEO(経営トップ)にはならなかった人

名前 説明
岩間和夫

1976年1月、盛田昭夫氏の後任として社長に就任した。盛田氏は会長になった。 このとき、盛田氏はソニーに初めて「CEO」と「COO」という職制を導入する。 盛田氏はCEOとなり、岩間氏はCOOになった。

これは社長を退任した後も、実質的なトップの地位は盛田氏であることを内外に示したものだった。 結局、岩間氏はCEOになることなく、社長在任中の1982年に亡くなった。

後任社長の大賀典雄氏は社長就任から8年目となる1989年に、ようやく盛田氏からCEOを引き継いだ。 その次の出井伸之氏が大賀氏からCEO職を継承したのは、社長就任から4年後の1999年だった。

安藤国威(くにたけ)

安田講堂の攻防戦があった1969年に東大経済学部を卒業。ソニー入社早々、創業者・盛田昭夫氏の秘書に。ソニー・プルデンシャル生命立ち上げの中心メンバーとして活躍。北米の製造統轄責任者を務めてから帰国後、パソコンの「バイオ」シリーズを成功させる。2000年、社長兼COOに就任。同時に代表取締役にもなった。

中鉢良治(ちゅうばち・りょうじ)

2005年に社長就任。



ソニーの歴史
主な商品・出来事
1946年 東京通信工業(現ソニー)設立
1950年 国産初のテープレコーダー発売
1955年 国産初のトランジスタラジオ発売
1958年 ソニーに社名変更
1960年 世界初のトランジスタテレビ発売
1963年 世界初のトランジスタ小型VTR発売
1968年 トリニトロンカラーテレビ発売
CBSソニーレコードを設立
1975年 家庭用ベータ方式VTRを発売
1979年 「ウォークマン」発売
1982年 CDプレーヤー発売
1985年 カメラ一体型8ミリビデオ発売
1987年 デジタルオーディオテープ(DAT)デッキを発売
1989年 米コロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)を買収
1992年 MDシステムを発売
1994年 「プレイステーション」発売
1997年 DVDプレーヤー発売
パソコン「VAIO」発売
1999年 ペット型ロボット「AIBO」発売