ソニーの歴代の社長(経営トップ)一覧
名前 | 説明・実績 |
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井深大
(いぶか・まさる) 【個人事業主、創業者】 1945年10月~ 1946年4月 【動画】 <設立時の肉声> |
ソニー創業者。個人事業主としてソニーの前進となる「東京通信研究所」を単身で立ち上げた。
終戦から2か間後のことだった。
1908年生まれ。早稲田大学の在学中から数々の特許を取得するなど、天才発明家として活躍した。 最も有名なのは、ネオン管に高周波の電流を通すことで光が動く特性を応用した「流動ネオン」だ。 後に商品化され、パリ万博(1937年)で最高の発明品に贈られる金賞に輝いた。この特許料で大いに稼ぐこととなる。 大学卒業後は、PCL(後の東宝映画)に就職。 PCLの社長が設立した会社(日本光音工業)に移籍した後、その社内の無線部を独立させる形で「日本測定器」という新会社を仲間と共に設立した。役員の一人(常務)として経営にも携わるようになった。取引は軍需が中心だった。 1943年、戦争で苦戦していた日本政府は、起死回生を図るために秘密兵器の開発を急ぐ。 敵艦の熱を感知して命中させる誘導ミサイル(熱線爆弾)が計画された。 官民の研究者が総動員され、研究会が発足する。このとき民間から参加した一人が井深であり、軍部から加わった海軍中尉が盛田昭夫(後のソニー社長)だった。 盛田は井深の13歳年下。2人は意気投合した。 こうしたなか、井深の会社(日本測定器)は空襲を逃れるため、東京から長野県へ移転していた。 井深大はそこで終戦を迎えると、盟友・樋口晃(後のソニー副社長)ら他の技術者7人とともに上京する。 焼け跡に残る日本橋の東急百貨店(当時:白木屋)の3階の狭い配電盤室を間借りし、「東京通信研究所」の看板を掲げた。これが事実上のソニー創業である。 最初に手掛けた仕事は、ラジオの修理だった。 戦時中に壊れたラジオを直すだけでなく、本来は聴けないチャンネルを受信するための改造も手掛けた。 情報に飢えた大勢の人たちがラジオを次々と持ち込んだ。 優れた技術力に注目した進駐軍やNHK、官庁などからの仕事も舞い込んだ。 事業の前途に目算のついたのを機に、井深は個人事業を株式会社に改組することを決意。 有名な設立趣意書を起草し、「理想工場の実現」を説いた。 井深らの活躍が朝日新聞のコラムで取り上げられると、 戦中に兵器研究チームの仲間だった盛田昭夫が動いた。 盛田は実家の「盛田酒造」(愛知県)の後継者として期待されていたが、 井深は義父の前田多聞(元文相)とともに盛田の父親を説得し、仲間に引き入れることに成功した。 盛田の父は資金援助まで約束してくれた。 かくして敗戦から9か月後の1946年5月、井深と盛田家の共同出資により、「株式会社東京通信工業」が設立された。 資本金19万5000円、従業員20人だった。井深は38歳、盛田は若干25歳だった。 |
前田多門
(まえだ・たもん) 1946年5月~ 1950年11月 |
井深大が立ち上げた事業が、個人経営から法人(株式会社)に切り替わると同時に、初代社長に就任した。
井深の義父という縁だった。以来4年半、社長を務めた。
戦前・戦中のエリート官僚だった。敗戦直後に文部大臣に就任したが、GHQにより公職追放となっていた。 若い井深と盛田がソニー(当時:東京通信工業)を設立するにあたり、 対外的な信用を得やすい人物ということで、社長として担がれた。 就任当時62歳。会社としてのソニーは、前田社長、井深専務、盛田常務という体制でスタートしたのである。 やや名誉職のような立場だったとはいえ、幅広い人脈を活かし、有力財界人を婿の井深に紹介するなどサポートを行った。 初期の製品を官庁などに売り込む役目も担った。 |
井深大
(いぶか・まさる) 1950年11月~ 1971年6月 |
会社設立から4年経ち、経営が軌道に乗ってきたことから、
創業者・井深大がいよいよ社長に就いた。
社長になってからも技術部隊のリーダーとして自ら開発を陣頭指揮した。 1950年に国産初のテープレコーダーを発売する。 音声を記録する磁気材料やテープから始まって、すべて自前の技術で開発するという偉業をやってのけた。 次いで、発明されたばかりのトランジスタの実用化に挑み、トランジスタ・ラジオの初の完全国産化(1955年)に成功した。 その後もトリニトロン・カラーテレビ、ビデオへと挑戦を続け、次々と市場で勝利を収めた。「人まねでない独創的な商品開発」という精神を貫き、世界一流のテクノロジー企業へと躍進を遂げた。 出身:栃木県 誕生:1908年 死去:1997年(享年89歳) |
盛田昭夫
1971年6月~ 1976年1月 【動画】 <1988年、米国インタビュー> |
第3代社長。もともとは技術者だったが、ソニー設立以来、抜群の商売センスを発揮した。
「技術の井深、営業・マーケティングの盛田」と呼ばれる名コンビで、中小企業を世界一流企業へと発展させた。
国際感覚も抜群で、欧米で最も知られた経済人となった。
1953年の初の海外出張で、小さな農業国オランダの世界的大企業フィリップス社を視察する。 「小さな自国市場より広大な世界市場が舞台」とするフィリップスの方針に感銘を受けた盛田は、帰国するや世界市場進出への手がかりとして、1955年、東通工の製品をSONYブランドに変更した。社名もソニーに変えた。 商社に頼らず海外の市場に直接販売するための体制を整備したことは、 功績の一つとして高く評価されている。 盛田ならではの優れた交渉術や国際コミュニケーション能力が武器になった。 1970年には日本企業として初のニューヨーク上場を達成するなど、 グローバル化の先頭を走った。 世界中の若者を魅了したウォークマン(1979年発売)は、盛田らしい画期的なアイデア商品だった。 録音ができず、再生だけのテープレコーダーは売れないと反対する部下の技術陣に対して、 「売れなかったら責任をとり会長を辞める」と断言。発売を強行し、歴史的な大成功へと導いた。 製造業だけに依存する体質から脱皮し、多様な分野への進出を果たした功績も大きい。 米CBSとの合弁で日本にレコード会社を設立し、国内音楽市場で一気にトップ立った。 すると、今度は米国の本家CBSレコードを買収し、世界的なレコード会社になった。 その成功体験をもとに、米ハリウッド映画会社コロンビアを買収するという大型海外M&Aを実現させた。 「金融」の重要性をいち早く見抜き、銀行業へ参入を準備した。当初は大蔵省の規制の壁で実現しなかったが、 1979年にソニー生命を設立。保険業界に新風を吹き込んだ。 映画や金融は、21世紀のソニーグループにとって最大の収益源に育った。日本の産業界にとっても歴史的な偉業だった。 (日本の偉大な経営者ランキング→) 経団連会長を目前に病いに倒れた。1999年死去。享年78歳。 愛知県の名門造り酒屋の御曹司。大阪帝大理学部卒。 |
岩間和夫
1976年1月~ 1982年9月 |
第4代社長。創業期からエンジニアとして井深氏を支え、技術陣のリーダーとなった。とりわけトランジスタやCCDを生み出した功績は大きい。1954年に渡米した際にまとめた「岩間レポート」は半導体研究の礎となった。1970年代にコンピュータ時代の到来を予見し、プロジェクトを立ち上げた。
盛田昭夫氏の義弟でもあった。東京帝大理学部卒。1976年社長就任。社長在職のまま1982年に急逝。 |
大賀典雄
1982年~ 1995年 【動画】 <1988年、音楽についてのインタビュー> |
第5代社長。創業期を知る最後のソニー経営者。技術開発からブランド戦略まで卓越したセンスを持った天才事業家。一流のプロ音楽家(バリトン歌手)でもあった。
東京芸大の学生時代、設立間もないソニーの研究室に出入りし、井深や盛田と議論を交わしていた。 大学がソニー製の録音機を購入するにあたって、学生の分際で細かい注文を付けていた。 電気や機械についての才覚を井深・盛田コンビに見込まれ、 卒業後は音楽家としての道を進む傍ら、ソニーの嘱託社員となった。 1982年社長就任。アナログ・レコードの代替となる「CD(コンパクト・ディスク)」を拡大・発展させた。 ソニー製品のデザインを洗練させた立役者でもある。 ビデオテープ再生・録音機をめぐる規格争いでは、「ベータ」で多数派を形成できず、 「VHS」を擁するパナソニック陣営に敗れた。 それでも、MD(ミニディスク)を世に送り出して大成功させるなど、 消費者への訴求力で業界をリードした。 日本で早々にトップになり、 やがて世界大手になった音楽コンテンツ事業でも決定的な役割を果たした。芸術家としての完成が活かされた。 ハリウッドの映画会社買収でも、盛田昭夫氏の決断と実行を支えた。 後に稼ぎ頭となるゲーム機「プレステ」の立ち上げにも大きな役割を果たした。 2011年4月死去。享年81歳。 |
出井伸之
(いでい・のぶゆき) 1995年4月~ 2005年6月 【動画】 <2006年、最高顧問時代のインタビュー> |
第6代社長。ソニーで最初の「純サラリーマン社長」だった。
ほぼ無名の役員からの大抜擢だった。着任早々、多額の赤字を垂れ流していた米国の映画事業(コロンビア/ソニー・ピクチャーズ)の立て直しに取り組み、現地の経営陣の交代に動いた。 ピクチャーズの後任社長として招いたジョン・キャリーらによる再建が成功。 新体制で 「スパイダーマン」などのヒットが生まれ、危機的状況だった映画ビジネスは大きな収益源になった。出井氏の持ち味である近代的な経営感覚や国際感覚がうまく生かされたケースだった。(詳細→) 同じくハリウッド映画スタジオを買収したパナソニックが、現地の経営陣をコントロールできず、早々に株式を売却したことを考えると、出井氏のコロンビア再建は評価されるべきだろう。 しかし、電機事業では迷走した。当初は、インターネットの時代の到来に乗っかろうと、「デジタル・ドリーム・キッズ」などカタカナ語の標語を乱発し、メディアから「先進的な経営者」ともてはやされた。 ところが、技術的な潮流の本質を理解できず、革新的な商品やサービスを自ら生み出すことができなかった。 過去の経営者が生み出した「ウォークマン」「プレステ」などの優れた商品群を、ネット時代に適合させることに失敗。米アップルなどに産業の主役の座を奪われた。 ただ、銀行業への参入を実現させたのは大きな成果だった。 就任期間の後半は業績を悪化させ、日本の株価全体の足を引っ張る「ソニーショック」を引き起こした。最後は責任を問われ退陣した。 父親は早稲田大学の経済学者で、自らも学者肌だった。ソニー入社後は外国部に配属、フランス法人設立に参加した。1980年代にパソコン事業を手掛けるが失敗。担当事業部長としてビデオテープ再生・録画機「ベータ」からの撤退も指揮した。 |
ハワード・ストリンガー
2005年6月~ 2012年4月 【動画】 <2009年、米国家電ショーでスピーチ> |
第9代社長。米国ソニーのビジネスを立て直した功績が評価され、ソニー初の外国人トップとなった。
ジャーナリスト出身という異色の経歴の持ち主。米CBSテレビでドキュメンタリー制作に携わるなど、約30年間メディア業界に従事した。 ソニーとの縁は、1997年に米国現地法人のトップとなってから。東京本社の出井伸之CEOの意をくみながら、映画や音楽事業を近代的なビジネス体制へと転換させた。 米国の老舗映画スタジオMGMを買収するなど、コンテンツ重視の時代を先取りした。 「最高の外交官」とも評される交渉力と人柄が、ハリウッドや音楽業界相手の難しいビジネスを成功に導いた。 CEO就任後は、出井時代から衰退していた電機事業の立て直しに腐心した。 グループが一致団結すべきと「ソニーユナイテッド」を提唱したが、中身のある施策を実行できなかった。 日産自動車のカルロス・ゴーンのような大改革をするほどの腕力や遂行力はなかった。 それでも、時代遅れの「ものづくり万能主義」への逆行を食い止め、国際派の平井一夫へとバトンタッチした功績は大きい。世の中の流れを読み取る力は優れていた。 |
平井一夫
2012年~ 2018年 【動画】 <2019年、日経インタビュー> <2016年、母校のインタビュー> <2018年、米国インタビューでAIBO紹介> |
コミュニケーション能力に長けたリーダー。
国籍や世代を超えて、あらゆる立場の社員や取引先と腹を割って意思疎通ができるのが強みだった。
【再建屋】 社長として慢性的な赤字に陥っていた電機事業の再建に正面から取り組んだ。 パソコン「VAIO」などの不採算部門を次々と売却。 会社の採算性を改善させた。 後ろ向きのリストラが中心だったが、短期間でスリム化を実現した実行力は評価できる。 「ネアカ」で実直な性格もプラスに働いたようだ。 とはいえ、ソニー本来の特技だった革新的な新規事業の立ち上げという面では、 目立った実績はなかった。 【素早い引退】 子会社ソネットの社長だった同世代の吉田憲一郎氏を、実質的なナンバー2として迎え入れ、 自分の相棒として経験を積ませたうえで早々にバトンタッチした。 就任から6年。57歳という若さでの社長退任劇だった。 【亜流の経歴】 もともとは、レコード会社ソニー・ミュージックの社員だった。 「音楽が好きだった」という理由で、当時のCBSソニーに新卒で就職。 洋楽アーティストの来日時のサポートする業務を担当した。 米国からの帰国子女だったため、 英語はペラペラ。 入社10年目にニューヨークに配属された。 【米国でプレステを成功】 ちょうどそのとき、ソニー本社が開発した新しいゲーム機「プレイ・ステーション(プレステ)」を米国でも発売することになり、部外者がら手伝いに駆り出された。 そこでの働きぶりが、ソニー・ミュージック役員でプレステ事業の「影のまとめ役」だった丸山茂雄氏に認められ、 35歳の若さで米国ゲーム事業のトップに抜擢された。 それ以来、日本にいるプレステ創始者・久夛良木(くたらぎ)健氏のビジョンを海外で支える人材として大活躍。 米国のゲームソフト会社などと良好な関係を築き、 最大のゲーム市場である北米で、 プレステ1号機と2号機を大成功させた。 続く3号機が過剰なハイスペック半導体投資によって巨額赤字に転落すると、 米国を離れて日本のゲーム事業のトップを任され、 見事に立て直した。 その手腕を買われ、ハワード・ストリンガー社長から後継者に選ばれ、51歳という異例の若さでソニー全体の社長に就任した。 |
吉田憲一郎
2018年~2023年3月 【動画】 <2018年、中期計画の発表> |
ソニーで財務や証券畑を歩み、出井伸之氏の時代に社長室長に就いた。
自らの希望で、インターネット接続業務を担当する子会社「ソネット」に出向し、社長に就任。株式上場を成功させた。
平井一夫社長に経営センスを買われ、後継者に選ばれた。 社長就任後は、主力製品である「CMOS(相補性金属酸化膜半導体)画像センサー」の新工場(熊本)建設という大型投資案件を決めた。 電気自動車の開発にも力を入れた。 米国にあるアニメ専門の動画配信会社「クランチロール」を1300億円で買収した(2021年)。 ディズニーやワーナーなどのハリウッド映画スタジオは、Netflixに対抗して配信サービスを立ち上げたが、 吉田体制下のソニーはそのような無謀な道は選択しなかった。 アニメに特化した既存の配信事業を買い取るというニッチな路線を選び、やけどをせずに済んだのは良かった。 2020年、上場していた金融子会社(ソニーフィナンシャル)について、上場を廃止して完全子会社にすることを決断。 4000億円を投じて、市場から35%の株式を買い取った。 ところが、その3年後の2023年6月、再び金融子会社を上場させるとの計画を発表した。 上場後は20%弱の株式保有比率にとどめるという。まるで一貫性がない。 結局「マネーゲーム」がやりたいのか? 「製造業」よりも「金融」のほうが有望なビジネスであるはず。むしろグループの中核事業の一つとしてガッチリ抱え込んでおくべきではないのか。 |
十時裕樹(ととき・ひろき)
※2023年4月から社長だが、CEOではなく、COO(ナンバー2)である。 【動画】 <社長就任の挨拶> |
2023年4月1日付で社長兼COOに就任。吉田社長は会長となった。
ただ、CEOは引き続き吉田氏が務めることとなった。
ソニー銀行の設立の中心メンバーだった。とはいえ「創業者」や「起業家」ではない。ソニー本社のサラリーマンの一員として、出井伸之社長らの指揮のもと、ソニーの組織や資金をたっぷり使いながら子会社を立ち上げる業務を行ったに過ぎない。 吉田前社長と同じく財務出身。ソネットでも吉田前社長の腹心だった。社長に就任する前はCFO兼副社長として吉田氏を支えた。それにしても、仲間うちだけでトップ2ポストを占拠するのはいかがなものか。他にもソニーには多彩な人材がいるのではないか。 |
社長にはなったが、CEO(経営トップ)にはならなかった人
名前 | 説明 |
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岩間和夫 |
1976年1月、盛田昭夫氏の後任として社長に就任した。盛田氏は会長になった。
このとき、盛田氏はソニーに初めて「CEO」と「COO」という職制を導入する。
盛田氏はCEOとなり、岩間氏はCOOになった。
これは社長を退任した後も、実質的なトップの地位は盛田氏であることを内外に示したものだった。 結局、岩間氏はCEOになることなく、社長在任中の1982年に亡くなった。 後任社長の大賀典雄氏は社長就任から8年目となる1989年に、ようやく盛田氏からCEOを引き継いだ。 その次の出井伸之氏が大賀氏からCEO職を継承したのは、社長就任から4年後の1999年だった。 |
安藤国威(くにたけ) | 安田講堂の攻防戦があった1969年に東大経済学部を卒業。ソニー入社早々、創業者・盛田昭夫氏の秘書に。ソニー・プルデンシャル生命立ち上げの中心メンバーとして活躍。北米の製造統轄責任者を務めてから帰国後、パソコンの「バイオ」シリーズを成功させる。2000年、社長兼COOに就任。同時に代表取締役にもなった。 |
中鉢良治(ちゅうばち・りょうじ) | 2005年に社長就任。 |
ソニーの歴史
年 | 主な商品・出来事 |
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1946年 | 東京通信工業(現ソニー)設立 |
1950年 | 国産初のテープレコーダー発売 |
1955年 | 国産初のトランジスタラジオ発売 |
1958年 | ソニーに社名変更 |
1960年 | 世界初のトランジスタテレビ発売 |
1963年 | 世界初のトランジスタ小型VTR発売 |
1968年 | トリニトロンカラーテレビ発売
CBSソニーレコードを設立 |
1975年 | 家庭用ベータ方式VTRを発売 |
1979年 | 「ウォークマン」発売 |
1982年 | CDプレーヤー発売 |
1985年 | カメラ一体型8ミリビデオ発売 |
1987年 | デジタルオーディオテープ(DAT)デッキを発売 |
1989年 | 米コロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)を買収 |
1992年 | MDシステムを発売 |
1994年 | 「プレイステーション」発売 |
1997年 | DVDプレーヤー発売
パソコン「VAIO」発売 |
1999年 | ペット型ロボット「AIBO」発売 |